学校法人 和田学園  認定こども園 青竜幼稚園

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前園長日記/和田節子ライブラリー

『思い出さがし』 181・「はるかに」ということば

結婚して56年も過ぎたが、結婚式の前に届いた電報を思い出す。小学校の教師として最初に出会った子ども達はO小学校の3年生だった。漁師町の子ども達は気が荒く、指示を余り聞かない子が多いということだったが、明るくて美人の多いクラスだった。その上、男の子は活動的で花壇の手入れやニワトリの飼育にも協力的だった。昼食は家へ食べに帰る子が多く、弁当組は、みんなおにぎり弁当だった。その中にM君がいた。小さくて勉強が嫌いで、同じ仲間のA君と昼食後はよくニワトリ小屋に入って卵を取って来て飼育係をしていた私の所へ持って来て、必ず1個ずつ生卵を飲んでいた2人だった。それは3人の内緒ごとだった。秘密を持つと何となく連帯感が出て来て3人はよくアイコンタクトで意思が通じる様になった。算数の苦手な2人は、文章題になると2人で目で合図をして「分からんなぁ、ボクらに当てんといて。」と伝えていた。何とか言葉を出させたい私は、「はい、この問題を大きな声で読める人!」と言うと一瞬戸惑った2人が元気よく手をあげた。「はい、A君。」「秋子さんは立ち幅跳びで1m17cm跳びました。冬子さんは98cmでした。2人の差はどれだけですか。」すかさずM君が、「はい、秋子さんの方がはるかに多いです。」みんな大笑い。空気が和みました。それから2年後、5年生になったM君から、「はるか海上よりお祝い致します。M」という電文をもらった。父と漁に出た日のことだった、ということだった。
2015年08月21日 23:58

『思い出さがし』 180・終戦前夜

少し夏休みで2週間ぶりの園長日記です。70年前のこの日、8月14日、北朝鮮の鉄原という所にいた私は日本人町にあっという間に広がった話を聞き「何というバカな!」という思いと「もし本当なら奇跡だ!」と心が弾む思いもあった。「今、日本では梅の木に一斉に桜の花が咲いたんだって!」「日本中の梅の木に咲いたんだって!キセキが起きるのよ。」日本人町のおまわりさんの奥さんが皆に言いふらしていたらしい。私の母は「節子、日本は敗けるよ。戦争は終わるよ。」と厳しい表情で言い、「荷物をまとめようね。」と立ち上がった。そして、「こんなバカなことを言って信じさせようとするほど、この戦いは惨めな負け方なんだ。」と呟いた。小学4年生の私には、どこまでも自国の勝利を信じ最後には、キセキを祈るまで追い詰められたことが少しわかっていた。学校から男の先生がどんどんいなくなり、駅や大企業の工場や中学校に爆弾が連日落ちる様になっていたので、日本へ帰れないのでは、という不安の中で暮らしていたので、キセキの様な話に気を取られることはなかった。母はとても冷静だったと思う。母の強さは心強かったが、いつも頭ごなしで気が滅入ってしまう。しかし、家族を守ろうとする母の存在は父が入院していた中だったのでありがたかった。
2015年08月14日 23:56

『思い出さがし』 179・親と子④

「勇くん」という名前で亡くなったお父さんが勇敢で人を助ける子に育ってほしいと願ってつけたそうです。その頃、家の裏を流れる小川の向こう側に父を亡くした女の子いることを知りました。裏庭から見える女の子の家には美しくて若いお母さんといつも淋しそうに本を読んでいる女の子が見えました。時々おじいちゃんとおばあちゃんが果物やおもちゃを沢山持って来て下さるようで女の子の嬉しそうな笑い声を耳にしました。祖父母が仏壇に向かって合掌している横で、ちょこんと座っている女の子は「良子」と書いて、「りょうこ」と読むらしく、おばあちゃんの方を向いて「りょう子ね、あのね。」と甘えている風景をよく見ました。小学校2年生という話でしたが幼く見えました。いつもおじいちゃんの背中にくっついて「あのね、りょう子はね。」と離れようとしません。きっとお父さんにいつも甘えていたのでしょう。おじいちゃんも困った顔をしながらも、よく抱きしめていました。お母さんに「いつまで、くっついているの。おじいちゃんもお忙しいのよ。」と言うと「だって、私のおじいちゃんだもん。おじいちゃんといっしょに寝るもんねえ。」と、だんだん声が大きくなります。近所のおばちゃん達は、お父さん子だったから仕方がないね。気持ちは分かるけど・・・ねえ。」と話し合っていました。勇くんと良子さんの2人は父の死をどう受け止めたか、又、まわりの大人達がどう受け止めたかによって育ちが大きく違って来ることを知りました。
2015年07月24日 23:56

『思い出さがし』 178・親と子③

父を結核で亡くした子どもが多くて、残された母と子は静かに母の郷里へ帰る人が多かった時代でしたが、その母と子は工事現場の掃除をしながら子育てを続けて行くことになった様です。早くに父を亡くした男の子と女の子を見て来ましたが男の子は急に少年らしくなり、女の子は甘えん坊になることが多かった様に思います。男の子は父の代わりをして母を助けたいと思うからでしょうか嵐の吹く夜は母の帰りを待ちながら雨戸をしっかり閉めて、家のまわりを点検している様に見えました。隣の魚屋さんのおばちゃんが心配そうに男の子に声をかけ、「えらいなあ、すっかりお兄ちゃんだね。後でおばちゃんも見に行くからね。」と元気付けていました。お母さんが疲れて帰って来る頃には、お茶を作って待っているらしく、番茶の入った長細い袋が台所の棚の上に置かれているのが見えました。とても来年から小学校へ入るとは思えないしっかり者でした。お母さんを助けて家を守るようになってから、男の子の顔付きまでがキリッとして近所の人達へ挨拶も見事で、その健気さにまわりの大人達も心して彼を守る様になったのです。私の母もその1人で珍しい食べ物が手に入ると、いつも運んで行って彼を励ましていました。私も彼のことが気になり名前をようやく知りました。
2015年07月17日 23:57

『思い出さがし』 177・親と子②

道路にまかれた水には消毒の匂いがしたのです。クレゾールかアルコールか分かりませんが魚屋さんの隣だったので困ったと思っておられたのでしょう。私は何か理由があると思っていたのですが、ある日、男の子が隣の魚屋さんに走っていって「お母さんに電話して!」と叫んでいました。お客さんも数名いて「どうしたの。」「ぼく痛いとこあるんか。」と聞いているうちに電話番号の書かれたメモ紙を「おばちゃん、助けて!」といって出したのです。電車道をはさんで斜め向かいにいた私には男の子の必死の姿が痛々しく映り、ついお店へ走って行きました。「助けて!」と言われたおばちゃんは早速メモ紙を見てダイヤルを回していました。そして、「お父さんはいないの。」と聞いていましたが、とうとう泣き出し、「お父さん、血が出た。血が出た。」と切れ切れに叫んだのです。私はいつも家にお父さんが家にいて静かに本を読んだり、何かを書いておられる姿を見ていたので、お節介だと思ったのですが、その家の玄関を開けて「お父さん!」と叫びました。奥の部屋の襖が少し開いていてお父さんの咳込む姿が見えました。口元にタオルを当てて、「入ってはいけません!」と強く言われました。一瞬ひるんだ私の目に血に染まったタオルが見えました。その頃、結核で亡くなる方が多かったので看護師だった母からそのことを聞いていたので小さな息子と終日一緒にいる父と子のことを考えると息子が可哀相で泣けてしまい、お店のおばちゃんに報告しました。
2015年07月10日 23:54

『思い出さがし』 176・親と子①

80年近く生きていると沢山の親と子に出会います。そして自分も親になり子どもを通して人生を生きることになります。子どもの時に出会った親と子の姿と親になってから出会った親と子の印象は大きく変わっています。子どもとして見た沢山の親子はどうしても子の側に立って見てしまい親となって出会った沢山の親子は、やはり親の立場で見てしまいます。5年生の時、近所に住んでいた親子は印象的な親子でした。父親は終日家にいて夕方によく散歩に出かける時、4才位の男の子の手を引いて静かに出かけるのです。男の子は嬉しそうに父親の大きな手にぶら下がる様にして歩き始めます。30分程すると父と母と息子の3人で少し疲れた様な息子を中心にして帰って来ていました。まだ市電が街の中を走っていた頃だったので、電車が通り過ぎたあと、電車の運転手さんに手を振る男の子の顔は笑顔でした。母親が玄関の戸を開けてバケツに水を入れて素早く玄関に置きます。父親が「ありがとう。」と言ってバケツの水に腰につけていたタオルを入れ、固く絞って手や顔を洗った息子に固く絞ったタオルを渡しています。息子は黙って受け取り、父親と同じことをすると母親がタオルを洗い直して自分も手や顔、そして足を拭いてそのバケツの水を道路にまくのです。近所の人達は少々迷惑そうでした。
2015年07月05日 23:56

『思い出さがし』 175・しつけを考える③

確かに食事の時間には、その子の家庭での様子が見えて来ます。とにかく早く食べて遊びたい子、早く食べることが目的で『一番!』と言いたい子、食べながら箸箱を触ったりスプーンやフォークを出したり入れたりする子、隣りの子や前の子とお喋りばかりで楽しそうだが食の進み方の遅い子、中には立ち歩いてじっとしていない子もいますが「もうおしまいにする?」と担任が言うと慌てて食べるがしばらくするとコップを回したり隣りの子のキャラクターのある箸箱を触って自分のペースで完食する子、嫌いなものにチャレンジして先生に褒められると次ぎ次ぎチャレンジする子、食事の現場はその子の未来を感じさせる場面かも知れません。「ぼく、これ嫌いやけど食べてみる!」とほんの少し口をつけて見て意外といけるなと思う子とやっぱり駄目だと思う子がいます。でも、このやってみようとする気持ちは、これからの生き方に大きな影響を与えることでしょう。自分のペースを貫き、周りに左右されない子は食事のマナーのしっかりした家庭の子なのでしょう。ペースは遅いが周りに惑わされることのない信念をマナーとして身につけたのでしょう。幼い時に身体で覚えたマナーや習慣は、その子を一生与え続けると思います。親側がそのマナーのモデルになることが大切という所で話し合いは終わりました。親がモデルと昔もよく言われました。
2015年06月26日 23:58

『思い出さがし』 174・しつけを考える②

食事に関する話が出ると皆さん各々の体験を話されました。「子どもの食は家庭が中心になって基本的なしつけが必要です。好き嫌いの問題ではなく、食事のマナーのしつけが1才半頃からその子のマナーを決定していく様に思えます。」という考えに沢山の反応がありました。「子どもの食事は大人の様にバランス良く時間通りに進まないのは当然なのに、4才になっても自分の力で食べる能力のない子がいます。時間内に食べさせたいので親が横について食べ物を口に運んでいて、本人は半分遊びながら食事をしていたのでしょうね。好き嫌いは年令が進むにつれてなくなりますが、食事のマナーは思いやられます。中学生になってもグループでお喋りをしたり、席を立ったりして周りの子に不快感を与えていますが、そのことを自覚していない子が増えています。」「どんな小さい子も食に関心のない子が増えていて、食べることに感動がないのです。ファミレスやお寿司やさんの名前を沢山知っていて、そこで食べることの多い子は腕の良い料理人の作ったものでないと満足しないのかも知れませんね。」「昔は『おふくろの味』といって煮物や煮魚、焼き魚が美味しかったのですが、今はハイカラな肉料理や見た目の美しい原材料の分からない料理に慣れていますね。母が冷たい氷で野菜を刻んだり、皮をむいたりするのを手伝った子が少なくなったのでしょう。作った人への感謝もしつけの1つだと思うのですが。」食育とは何かを考えさせられる時間でした。
2015年06月19日 23:31

『思い出さがし』 173・しつけを考える①

もう何年かするとしつけという言葉は死語になるのでは、という教師に会いました。中学校の先生だということです。「おはようございます」と先生から声をかけても「フン」とばかりの軽い態度で頭を下げるだけの子が増えているということです。中には、集団でいるとあまり声を出すこともなく頭を下げるだけでいいので、大声であいさつするする子の集団に交ざっていると思われる子もいるとのこと。ほんの一部だと思うのですが、集団で何かをすれば1人の負担は少ないからと思う子もいて、出来るだけ省略しようとしているのかも知れません。又、ある施設の職員の方は早くから集団に入って集団で行動している内に集団の中のルールみたいなものが自然に出来上がって来ているのかも知れないという意見でした。考えてみると1才前から集団の中にいると誰かが「おしっこ行ってもいいですか。」としっかり言った時、「ぼくも」「わたしも」と一言いえばトイレに行けることが多い場合があります。ひとりひとりが「先生、おしっこ行って来ていいですか。」ときちんと言わせた先生も2人3人に言ったあと「あぁいいよ、みんな行っておいで。」となり、月令の低い子は便乗してトイレへ走って行くことが多くなります。その点、家庭でお母さんがきちんと1人の子に向かい合っているとしつけもできるでしょうね。」と言っていましたが、そのお母さんがしっかりしつける気持ちがなければ少々お尻をもぞもぞしているのを見て「はよ、行っておいで、おしっこ。」といつも言っていたのでは集団のしつけの方が行き届く気がします。
2015年06月13日 23:57

『思い出さがし』 172・生と死⑤

英ちゃんのおばちゃんが手ぬぐいで汗を拭きながら帰って来ました。袖の中に赤い小さな実と野ゼリとジャガイモの様な物を入れて持って帰って来てくれたのです。1ヶ月間も貨物車の中で暮らしていた私達にとって、それはとても嬉しいお土産でした。赤い小さな実は茱萸(グミ)といい、少しすっぱいけど私は大好きでした。野ゼリは少々ゆがいて食べると不思議な美味しさがありました。ジャガイモみたいな物は、やはり芋の仲間でしたが、名前が分かりません。でも、おばちゃんは「毒ではないけん、みんなで食べような。」と缶詰の缶を川で洗って、芋を小さく切ってコトコト煮てくれました。少し大きい石を組み合わせて竈(かまど)を作っておいた私の母は「どこまで行って来たの。昼間はあんまり遠くへ行かんどいてね。」と言い「あんたが見つかると、この部隊みんながやられるんやからね。」と念を押していました。「すみません、気をつけます。」と泣きそうに謝るおばちゃんの横で私は母を睨みつけていたと思います。「おばちゃん、ごめんね。あの池、少し壊して来たんや。明日またそっと見て来るわ。」と言うとおばちゃんは私の手をとって「ありがとう。あの魚がみんな英ちゃんに見えた。辛かったんや。どうしても食べる気がしなかったんや。」と肩を抱いてくれました。「魚の大好きだった英ちゃんが魚になってお母さんに会いに戻って来たと思うんやろな。生命ってすごいな!」私は敏ちゃんとそんな会話をしながら寝ました。
2015年06月05日 23:57

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