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前園長日記/和田節子ライブラリー
『思い出さがし』 ⑳ガキ大将のかげに
最近の若者、特に男性が優しくなっています。ひところTVのコマーシャルで『わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい』と言って、大きなハムにかぶりつく父と子がアップになったことがありました。人々は「うんうん、その通り!」と礼賛したものです。私も内心そうだなぁと思っていた所、ある青年のつぶやきにハッとしました。「オレ、あのコマーシャル好きでないんです。」とポツンと言って大きな溜息をついたのです。東北大学の文学部を出て西田幾太郎の研究をしていた小柄な男性でした。「何かあったの?」と聞くと「たくましいはいいのですが、わんぱく者を強調しているのがイヤなのです。」と言って暗い表情になり、周りがガキ大将を持ち上げて、最近の男はガキ大将と呼ばれたことのない奴ばかりで困ったものだと盛り上がっている中で暗い空間ができていました。「すみません。先生オレ小さい時から小柄で運動神経もないので、仲間に入るためにいつもガキ大将の使い走りをして自分の居場所にしていたのです。体力がなくて運動能力の低い子は、常にガキ大将やわんぱく者の下で命令を聞いていたのです。」といつもは無口な彼が小声で話して来ました。「光の当たっているわんぱく達のかげには、オレ達の様な小兵が何人もいたことをわかってほしいのです。」と言い切って退席して行きました。あるボランティアの会での出来事でした。そのボランティアの会で何度も会いましたが、いつも明るくて仲間を大切にする人でした。『思い出さがし』 ⑲新しい年の初めに
新しい年が明けました。今年はどんな年になるのでしょうね。昨年よりは少し幸せな年になる予感もありますが、あまり期待ができないというのが本音だと思います。東日本大地震の余波にドキドキしている地方もあると聞きますが、日本列島は地震があって当たり前の国なので、常に心の準備が必要なのでしょう。でも、のど元過ぎればでいつの間にか忘れてしまうのが人間です。忘れることがないと疲れてしまいます。私が小学6年生の6月に、福井の大地震がありました。市内を走っていた電車がグラグラ揺れて今にも倒れそうでした。母方の祖母がバスで田舎に帰るというので、バスのキップを買いに売り場まで行った時にグラッと来て、思わずしゃがみ込んだ祖母は「いなおり、いなおり。なんまんだぶ、なんまいだぶ。」とつぶやいていたのを思い出します。「いなおり、いなおり。」ってどういう意味?と聞くと「静まってくれ。怒らんといてくれ。と言うことや。」と言って手を合わせていましたが、語源はわかりません。ようやく静まった頃祖母は大地に手をついて「あんやと、あんやと。」と何度も頭を下げていました。自然の恐ろしさをイヤというほど分かった上で、怒りを静めて下さった天地に祈りと感謝をささげる祖母を見て、人間と自然とのつながりを考えさせられたのでした。あれから60数年地震は繰り返えされており、自然の猛威の前では人の知恵はひとたまりもありません。自然との共存をしていくための知恵を磨く必要があるのでしょうね。今年もよろしくお願いします。
『思い出さがし』 ⑱虐待に思う
今では数も少なくなりましたが、10年位前までは毎週の様に虐待のことで相談を受けることがありました。特に自分が小さい時母親に差別され、姉の通知表は取りに行ったけど自分の通知表は自分でもらって来たというお母さんは、我が子にも同じようにしてしまいたくなって悩んでいるということや、父に叩かれ足で蹴られた体験が思い出され、ついはさみやおもちゃのバットで叩いてしまうという母親の声が続きました。暴力暴言は世代連鎖をします。暴力をふるわれた者が一番暴力の恐怖とその効果がわかるから、自分の思いを実現するために効果の強い暴力暴言を使うのでしょう。ある母親は不登校の息子が「お前の子に生まれたのが不幸だった。」とわめいてベットに入った夜、縄ひもを持って息子のドアノブをそっと開けようとした時、そのドアに映った自分の縄を持った影を見て、思わずその場に座り込んだと言って、深夜私の所に電話をかけて来ました。「お母さん!えらい!自分の影を見て思い止まるなんて、何とすてきなお母さんなんでしょう。今すぐ行って抱きしめたいぐらいです。」と言ったところ、声を殺して泣き出され「こんな遅くにごめんなさい。本当にごめんなさい。」と頭を下げておられる様でした。この時をきっかけに交流が始まり、孤立していたお母さんはもう一人ではありませんでした。実際に会って手を握り、肩を抱いただけだったのに、彼女は力強く連鎖を断ちました。母親の暴言暴力を乗り越えたのです。周りに誰か一人でもいい、心を抱きしめる人が必要なのです。
『思い出さがし』 ⑰体を動かすお母さん
ある保育園の父母会に出かけた時のことです。玄関で3人の男の子達が手に手に縄跳びを持って出迎えてくれました。「おばちゃんだれや?」と言うので「幼稚園の先生や。」と言うと「その幼稚園どこにあるが?」と問いかけて来ます。「金沢って知ってる
?」と聞くと「うん。ぼくのお母さんのお里やし行ったことある。」と嬉しそうです。「ここは羽咋やしちょっと遠いね。」と言
うと「ぼくの生まれた所は小立野っていう所や。ばあちゃんの家がある所や。」と縄跳びを回しながら元気一杯です。他の2人も
飛び始めましたが、まだまだ縄を前に置いては跳び置いては跳びのレベルです。小立野で生まれたという子だけはリズムに乗って
ぴょんぴょん跳びます。「上手やね。かっこいい。」と言うと「ママとお庭で毎日競争しとるがや。」と明るい笑顔で跳び続けま
す。あとの2人は跳ぶのをあきらめてどこかへ行ってしまいました。「お母さんと一緒に色んなことをするの?」と聞くと「うん
。ハネつきもしたよ。キャッチボールもしたし、サッカーもするよ。」と目をキラキラさせています。子どもと一緒に体を動かし
て遊ぶことのできるお母さん、それを楽しんでいるお母さんは遊び心の沢山あるお母さんなのですね。何度も何度もあや跳びをし
て見せてくれる子が「あっお母さん来た!」と言って幼稚園玄関に走り出しました。にこやかな母親の背中には妹がピンク色の帽
子をかぶって寝ていました。母親は玄関の時計を見て「今日は35分で着いたわ。今度は30分になるよう頑張るぞ。」息子とハ
イタッチ。歩いて来られたのです。脱帽でした。
『思い出さがし』 ⑯祖父母の思い出
祖父母の存在はだんだん年をとるとやっかいなものになるのでしょうが、20才の学生達の中には直接ふれあうことのなかったため、印象も弱く、亡くなった時だけ病院へ連れて行かれたという者が多くなりました。
でも中には、おじいちゃんが大好きで、病気になったおじいちゃんを毎日見舞ったという話を聞きました。それを聞いた若者達は、思い思いに自分の祖父母のことを語り始めました。幼い時毎日保育園に迎えに来てくれたこと、両親が旅行に出かけた時、同じ布団で眠ったこと、父親の叩かれて助けを求めて走った祖父母の家のこと、夏休みの自由研究を助けてもらい優秀賞になり恥ずかしかったこと、色んな話が出て来ました。みんなが優しい気持ちになった時、ひとりの美しい顔立ちなのにどこか淋しげな女子学生が「もうそんな話やめて。私おるとこ無くなるから。」と言ってうつむきました。まわりの学生達は何か悪いことをした様に、自分の席に着いて静かになりました。やがて、一人の女の学生が「ごめん。私たちの話ってそんなにイヤな話やった?」と小さくつぶやくと、美しい学生はキッと顔をあげて「いい話やから傷つくこともあるんや。私にはみんなの様な思い出がひとつもないもん。あるのは憎み合う祖父母と両親の怒声しか思い出せない。」と言って涙ぐみました。憎しみの連鎖を断ち切る努力をしたいと相談に来たその学生に、答えを用意するはめになったのを機会に、沢山の人を語り合いたい思いです。
『思い出さがし』 ⑮子どもの涙
私が産休明けの初日、久しぶりで教室へ出かけたところ、ランドセルを肩からおろしながら私を見つけてはっと驚き、ひと呼吸してワーンと泣きだした女の子がいました。
私も何となく胸がせまって涙ぐんだのですが、通りがかった隣の組の先生が「あんたなんで泣くが。先生に久しぶりに会えて嬉しかったがやろ!泣いたらダメ!先生に失礼や。」
と言って私の肩を軽く叩き「気にせんといて。」と出て行かれました。私は2年生の女の子かおりちゃんが、毎日私を待っていてくれたことを知っていたので、泣きじゃくる彼女を抱きしめ
「ありがとう。待っててくれたのね。」と言いました。やがて次々と登校して来る子達が「アー先生や。和田先生や。」と後ろの子に呼びかけたり、腕にぶらさがったりして来ましたが、
中にはやはり涙ぐんでいる子もいました。大好きな子ども達に囲まれて幸せな一日がスタートしました。かおりちゃんが泣いたことを知った子達は「先生、かおりちゃんのお部屋に
あと何日で先生が学校へ来るってカレンダーあったよ。」「そうや、ずっと待っとったし泣いたんやね。」「嬉し涙やね。」「ボク、わかる。母さんが肺炎で入院した時、
一日早く退院して来たことがあったんや。泣いたもん、ボク。」「そうなんやて。痛い時、悲しい時だけじゃないがやて。なー。」と同意を求める子がいて、子どもの涙の複雑さを知らない
大人の話になった時、かおりちゃんが小声で「隣の組の先生、私のことどう思ったんやろ。和田先生のことイヤやと思ったんかな?」と言って来ました。気配りのあるかおりちゃんが愛おしくて
「大丈夫。3組の先生、かおりちゃんのこと大好きやしびっくりしただけや。」と言うと私の手を握り返して来ました。柔らかい手でした。
『思い出さがし』 ⑭男兄弟のけんか
ふたつちがいの兄弟は一番けんかが多いといいます。幼稚園の時は小さなことでのけんかなので、親も何とか対応できたのですが、2人が小学校へ行ってから のバトルは、体力もあり大変だったと報告を受けたことがあります。幼稚園児の頃は、年長と年少で仲の良い兄弟のモデルの様でした。良い子を演じていた兄 の方が心配だったのですが、兄の助けを必要としなくなった弟は伸び伸びと自分を出し、仲間と全力で体を動かして遊ぶやんちゃ坊主として卒園して行きまし た。兄はやんちゃな弟のことを常にセーブして来たのでしょう。3年生になっていたので、弟の教室をいつも気にしてて、弟のクラスの横を通って自分のクラ スへ向かっていたようです。1年生の弟は、最初の緊張がなくなると、次男坊のやんちゃぶりを発揮し、3年生の頃には兄にけんかを売る様になったのです。 母親には、2人はとてもいい兄弟になるから、少々のことでは口出しせず待つように話しました。5年と3年の兄弟の大げんかを待って見守る日が来ました。 原因は不明ですが、こたつをはさんで掴み合いのけんかが始まり、ドタンバタンと音がする程でした。台所でじっと耐えていた母親が、ふと静かになった部屋 をのぞいた所、仁王立ちになった兄が腕を組んで「もっとなぐりたかったらなぐれ。けとばしたかったらけっとばせ。お前の好きな様にしていいよ。」と静か に力強く言った所、コブシをあげて全身でぶつかっていった弟が、兄の胸で力を抜いて「お兄ちゃん!」と泣きじゃくったのです。そして、2人は抱き合って 号泣したそうです。2人の母でよかったと母親も泣いておられました。
『思い出さがし』 ⑫ボク・ワタシのパパは世界一
ミニバスの運転をしていた頃、バスの中は動く保育室でした。3才から5才まで、10人から12人の子ども達が楽しくおしゃべりをしていました。
4才児が「ワタシのパパはね、運転上手なんやぞ。こ~んな長い車をうまいこと駐車場に入れるがやぞ。」と両手をう~んと広げて話しかけます。すかさず3才児が「ボクのパパ速いがやぞ。この間おばあちゃんのお家行く時、パトカーより速くてパトカーのおまわりさんやっと追いついてんよ。」「ふ~ん。サイレン鳴らして来たんか?」と5才児。「そうや。パパ、キュキューって止まったんや。」「それスピード違反やぞ。な?」と周りの子の同意を求めています。「おまわりさんに叱られたん?」と3才児。「何か紙もらった?」と4才児。「うん。何か紙もらってパパ笑わんくなった。」と本人。4才児と5才児は少し目を伏せて黙ってしまいました。3才児は「何で笑わんくなったん?お腹痛くなったん?」と聞いています。するとサイレン鳴らして来たんやろと言った子が「あのな、悲しくなったんや。だってスピード出し過ぎですって紙に書いてあって、罰金とられるんやもんな。」と説明しています。「罰金って何や?」と3才児。「あのね、お金たくさん払うことや。1万円とか。」「へえ~電車やとスピード出してもバンキン出さんがに。」「バンキンじゃないバッキン!」「ボクのパパ新幹線の運転もできるんや。」と話の方向を変えたのは3才児。「ワタシのパパ飛行機の運転できるよ。」と4才児が言い出すと、みんなパパ自慢。幼稚園近くになって今まで黙っていた4才の女の子が「私のパパ、宇宙ロケットに乗れるもん。」ときっぱり。ここでパパ自慢は終わりました。
『思い出さがし』 ⑪ 女の子の言葉づかい②
母親が何気なく使っている日常語の中に、ことばの持っている暴力的な力や、傷つきやすい言葉に対するセンスやデリカシィなどに無関心な人が多くなったと思うことがあります。職場やタテ社会でことばのことで激しく注意されたり傷つけたりついたりする体験を沢山持っている人は男性に多いため、女性のとんでもない発言にびっくりすると言われた方がいて、そうなのかと納得したことがあります。核家族化が進んで若い世代だけになると、短くしたことばや流行語が盛んに使われ、両親世代に気兼ねせずに話す様になると敬語も使われなくなり挨拶も短くなるのでしょう。
「色んな世代のいる職場で働く男性ではなく、同年代での楽な職場で働いている女性が、家に帰って我が子に『死ね』『きもい子やね』と簡単に言ってしまうというのも分かる気がしますが、本来、言葉には品性が表れるものです。軽々しく『死ね』『きもい』『あんたなんかいらん』と口に出す人には、それを言われたことで傷つき、こんなことばは恥ずべきことだと思う知性、品性が欠けているのではないのでしょうかね。」と話し合いました。小学生で悪態つくことが口癖になっている子に「『ダメやよ、言われた子は傷つくんやぞ』と教えてやる子がいるから大丈夫や園長先生。」大人の世界では面と向かって言えないことを、ストレートに話せる子ども達を信じて見守りたいと思いました。そして、傷ついた時「止めて」と主張できる子を育てたいと思っています。